起業家講義

既成概念を打ち破り顧客の“おいしい”を目指す獺祭

桜井 博志氏(旭酒造株式会社 代表取締役社長)
2014年6月講演

掲載:2020/10/12

最終更新日:2023/09/05

※記事の内容や肩書は、講義時のものです

モノを売るときは中心、ど真ん中に行かないといけない。私たちは東京市場を重視しているし、世界に出ていこうとしているのもそのためです。小さい市場ではダメなんです。負け組でお金がなく、シェア競争で勝てないなら、大きいマーケットに行くしかないわけです。

今や日本国内のみならず、海外での人気も勝ち取っている日本酒「獺祭(だっさい)」。その獺祭を世に送り出している山口県の酒蔵、旭酒造は、右肩下がりの売上げが続き、3代目社長である桜井博志氏が継いだ時には倒産寸前の状態だったと言います。そこからの復活には、「杜氏なしのデータ管理に基づく酒造り」「既存のマーケットからの転換」など、これまでの常識を覆すような数々の取り組みがありました。「酔うため、売るための酒ではなく、味わう酒」を造り、獺祭で日本酒の活路を拓いてきた旭酒造。その軌跡から、地方の小さな企業が世界へとビジネスを広げていった経営理念を読み解くことができます。

売上げが3分の1に落ち込んだ酒蔵を継いで

日本酒業界では、昭和48年の石油ショックの年に一番日本酒が売れていました。翌年から右肩下がりになり、およそ40年間で売上げが3分の1、だいたい980万石から380万石に下がったのです。旭酒造も同様に、父の代の昭和48年に最高の売上げを記録していましたが、私が継いだ1984年(昭和59年)には、2000石だったものが700石、売上高で年商9700万円まで落ちていました。それまでの高度経済成長下では、あまり工夫しなくても真面目にやれば成功できる時代だったんです。しかし、その後はいろいろな形で競争が激しくなってきました。情報と物流の発展が日本酒の販売競争を招き、規模・立地・販売・資金・知恵に劣るものは負け組になります。私たちはその時点で負け組だったのです。

たったの10年間で売り上げが3分の1になっていた酒蔵の跡を継いだわけですが、私どもの旭酒造がある場所は山口県岩国市周東町大字獺越というところで、「大字」がつく時点で相当田舎ということがお分かりいただけるでしょう。つまり、地元では売るマーケット、人口がいない状態です。では、岩国市の14万人の人口、お隣の徳山市は10数万人、さらに柳井市も含めた山口県の人口44、5万人の市場を開拓すればいいのかと言うと、そこでもやはり負け組だったのです。

この売れない酒蔵を継いだころ、売上げは対前年85%程でした。どういう状況かというと、社員の危機感はゼロ。ただ、販売の社員がさぼっていたのかというとそうではなく、ちゃんと真面目に仕事をしていたわけです。過去10年間売れなかった商品を、売れなかった取引先を通して、売れなかったお客様に対して、一生懸命売る努力をしていたんです。これで売れたら奇跡です。

そして、さらに皮肉な話なのですが、私が継いだ時の杜氏がとても優れているとは言えませんでした。酒を造らせても吟醸酒にならない。なぜ吟醸にならないんだと聞くと、「社長、吟醸というのは難しいんだ。霞がたなびくがごとく造らなきゃいけないんだ」、と言うんです。「霞がたなびくごとく造れ?こいつはわかっていないな」というのが、新米の酒蔵の社長にもわかったわけです。これが、杜氏に任せずに技術情報を集めて、自分と社員だけで酒を造ることにつながっていきます。

「商品を」「お客様を」「売り方を」変えないと自分が変えられてしまう

いっぺんに全てを変えられたわけではありませが、私どもは「商品を」「お客様を」「売り方を」変えないと市場から退場させられることになるという結論に達したわけです。

結果論として今ならわかるのですが、世の中が少しずつ変化していました。特に宅配便の出現が酒の物流を大きく変えていました。それまでは遠隔地に酒を送るとなったら、5トントラックに一升瓶を1500本詰めて送るか、大型トレーラーで4000本積んで走らせるしかなかったのですが、そんなに買ってくれるところはありません。でも宅配便ができて、それまでは東京や大阪に旭酒造の酒を送ることができなかったのが、できる時代になってきたのです。そして、コピー機が100万円を切り、ワープロが30万円を切ってきたことにより、田舎の年商9700万円の酒蔵でも情報発信ができるようにもなってきたのです。

それと同じくして、マーケットの主役が玄人から素人へ変わり始めていました。この頃からスーパーやコンビニが伸びてきて、酒はそれまでの大量販売の論理から、お客様の幸せ志向品になってきていました。

商品を変えていく――。「おいしさ」で感動できる酒に

こういう時代が来ていたのですが、そんな中で商品が売れないのであれば、商品がおかしいのではないかと思い始めるわけです。その際考えたのが、「売れること」は会社の正義、「顧客の健康」は社会の正義。この相反することをどう実現すればいいのかということでした。大量飲酒は全てではない、だからと言って人間は楽しくなくては生きていけない。だったら、酔うためにたくさん飲むのではなく、「おいしさ」で感動できる酒を造るべきなんじゃないかと私たちは動き始めたわけです。結果として、おいしくなければならないから山田錦という米しか使いませんし、酒は純米大吟醸というタイプの酒しか造らないということにしました。だから、「獺祭」にはいろいろなグレードの酒はありますが、いろいろなタイプの酒はありません。常に一つと言えます。

先ほどの話に戻ると、杜氏が辞め、私と社員で酒を造ることになったがゆえに、ちょっと常識破りの地方の酒蔵の「四季醸造」につながっていきました。年間を通して酒蔵はずっと冬の状態である5度の温度に保たれており、この中で酒を造っています。これは雇用形態に理由があります。そもそも杜氏はお百姓の方が多く、酒蔵の仕事で冬場の現金収入を得ることができます。そして、蔵元側からすると、夏場にはその人件費が発生しないという非常にWin-Winの関係でした。ですが私どもは社員ですから、土日を除いたとしても1年中働いて酒を造ることになります。普通の酒蔵だったら、1年半先の需要を予測しながら生産しているところを、私たちは四季醸造ですから、すぐ先の3か月先の需要を予測しながら造っていくことができるんです。これは生産量の管理において有利に働きます。

私は30年間酒蔵の社長をやっている中で、杜氏が辞めるまでの前半の15年間で、9700万円だった売上げを何とか2億円まで伸ばすことができましたが、杜氏が辞めた後半の15年間で売上げが約40億円となり、20倍ほどに伸びています。いかにこの生産体制が強かったかが表れていると思います(参考:売上高 137億6,600万円 ※2019年9月期)。

ガチンコ勝負で業界のルールを破った、純米大吟醸の高品質化

そしてさらに品質の方向性の変更と確立を行いました。純米大吟醸だけを造るようになったという話をしましたが、これは「市販の純米大吟醸を高品質化していく」ということを意味しています。そもそも純米大吟醸は高品質じゃないのかと疑問に思われる方もいらっしゃることでしょう。しかし、日本酒業界には毎年春に全国新酒鑑評会というものがあり、これだけは一生懸命夜も寝ずに頑張るけれど、残りのお酒に関しては楽をしようというのが、残念ながら当時の業界のお約束だったわけです。

旭酒造の社員はそういった日本酒業界の慣例などは知らずにうちに来て酒造りを覚えるわけですから、日本酒を造る過程で、絶対に手抜きをしない造り方になっています。本来はお互いに気楽にやりましょうねと言うお約束がある中で、市販酒にガチンコ勝負をかけたわけです。ガチンコ勝負をかければ、当初は技術的に劣っていた酒蔵でも、1年や2年で追いついて追い越していけます。「獺祭は反則だ。あそこは大した技術力もないのに、あそこまでやればそりゃ酒がいいのは当たり前だ」という捨て台詞を見学に来た業界の方が言うわけです。その言葉に全てが表れています。私たちは業界のルールを破ってしまったのです。

既存市場にこだわらず、常にマーケットの中心を攻める

酒造り以外でも、私たちのやっていることは単純なことです。既存の市場にこだわらず、常にマーケットの中心を攻めるということです。

近いけれどなかなか買ってくれない山口県の郡部市場から、質を重視して買ってくれる東京市場に行ったら、なんとかかんとかちょっとずつ売上げを回復していくことができました。モノを売るときは中心、ど真ん中に行かないといけないわけです。その意味で言うと、私たちは東京市場を重視しますし、東京で売れたからと言って地方に行くのではなく、世界に出ていこうとするのはそういうことなんです。大きい市場で売っていかないとだめということなんですね。皆さんがその業界で圧倒的な資金量を持っているならシェア競争で勝てますから小さい市場でもいいんです。だけど、負け組でお金がないなら大きいマーケットに行くしかないわけです。

世界の中で日本の文化的ポジションを作るという戦い方

現在海外への展開をしていくうえで、「日本酒とはなにか」という話をしながら売っていき、世界の中で日本の文化的ポジションを作ろうと考えながら進めています。その際重要なのは、日本酒を液体として売って価格競争をするのではなく、またワインの概念とも重ねないこと。日本酒の土俵でなくてはならないということです。

一番売れているのはやはりアメリカ、中でもニューヨークが私たちにとって大切な市場です。しかし、そのニューヨークはフランスの食品やレストランの方を見ています。だからこそ、フランスでの日本酒販売をしっかり尊敬される形で売っていかなければならないと思っています。営業というよりは常に教育をしながら、日本酒とは何かという話をしながらフランスに酒を展開していくという形を取っています。

また、海外で日本酒を売っていく上で、ワインとの比較ではどうしても高くなってしまいます。しかし、高コストなんだから高いお酒で勝負しよう、高所得者を狙っていこう、上位5%のお客さんだけでいいというのが私たちの戦略の考え方です。上位5%のお客さんの嗜好や味覚は、非常に似ています。そして情報も行き交っています。そういった意味でも、私たちは世界をターゲットとしていこうとしているわけです。

改良され、改善され、変わってきた日本酒はこれからも変わっていくべき

日本酒というのは日本の歴史と文化により洗練された素晴らしい酒であるがゆえに、根本的な変革は不得手で難しいと思っています。ですから、細部の手法とその錬磨にこだわり、「伝統の手法を変えないほうが素晴らしい」という日本的な弱点を持っていると感じています。そこだけに飛びついて取り上げようとするマスコミも多くいます。でもそうじゃない。酒造りというのは室町時代あたりに確立され、そこからずっと改良され、改善され、変わってきているわけです。実はこれが日本酒のスタイルなんです。変わっていくところに日本の個性があるわけですから、どんどん変わっていかなくてはならないんじゃないかと思います。そうでないと日本酒は生き残っていけないだろうと思っています。

経歴:
桜井 博志氏(旭酒造株式会社 代表取締役社長)
旭酒造 代表取締役社長。1950年、山口県周東町(現岩国市)生まれ。松山商科大学(現松山大学)卒業後、西宮酒造(現日本盛)での修業を経て、76年に旭酒造に入社するも、酒造りの方向性や経営をめぐって父と対立して退社。一時、石材卸業会社を設立し、年商2億円まで成長させたが、父の急逝を受けて84年に家業に戻る。旭酒造株式会社代表取締役社長に。研究を重ねて純米大吟醸「獺祭」を開発、業界でも珍しい四季醸造や12階建ての本蔵ビル建設など、「うまい酒」造りの仕組み化を進めている。

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