アサヒビール奇跡の復活とさらなる挑戦への歩み
中條高徳(アサヒビール株式会社 名誉顧問)
2010年2月講演
掲載:2020/12/21
最終更新日:2023/10/03
※記事の内容や肩書は、講義時のものです
さまよっているアサヒビールが1年間かけて思いを練って、世に問うたのが「アサヒスタイニー」です。アサヒビールは「アサヒスーパードライ」が出てきて急に天下取ったようにみなさんおっしゃいますが、そうじゃないんです。勝つ日に勝つんじゃない。ルーツがあるんですよ。
一時期わずか9.6%のシェアに落ち込んだアサヒビールが、大逆転の末にトップ企業になった背景には、兵法に基づいた戦略方針や、マーケットインの基本理念、組織運営のための思想があったと言います。徹底した消費者調査から、コクとキレを同時に実現するためにいわば“味の損益分岐点”を求めて苦労を重ね、大ヒットしたアサヒスーパードライ。アサヒスーパードライ作戦の実行を営業本部長として指揮した中條高徳氏が、小さな会社が大企業を打ち負かすための方法をお話しくださいました。
敗戦後の分割を皮切りにシェアを大きく落としたアサヒビール
みなさんはアサヒビールが戦前、ビール業界の75%のシェアを持っていたということをご存知でしょうか? その名前も「大日本麦酒」。堂々と経営していたんです。残りの25%がキリンビールでした。その大横綱だった大日本麦酒が、戦後の過度経済力集中排除法という占領政策によりマッカーサーから分割を命じられ、アサヒビール(西日本)とサッポロビール(東日本)に分かれることになります。 私が56年に指揮を取る頃になりますと、なんと分割当初36.1%あった市場シェアは9.6%に落っこちていたんです。当時ハーバード大学が、寡占のケースのサンプルとして日本のビール業界を採用しているんです。たった4社の寡占状態でトップのキリンが6割を超えている、このような状況では2位以下は絶対に勝てないと説いていましたね。みなさんが、そんな状況のアサヒビールの指揮を命じられたらどうすべきか、興味があるところじゃないでしょうか。まさに生きたケースですから。
明るい資質なきものはリーダーを去れ
商売は生き物ですから、今いくら良くても明日がすぐピンチになるくらい、厳しい変化があるんです。だからピンチをチャンスと置き換えるような、明るい気質なき者は指揮の座を去れと私は思っているんです。明るく、明るく、明るくね。それともう1つ、長たる者は人の見ていないところを一番磨かなければいけない。「慎独」の精神(誰も見ていなくても身を慎み道を外さない)が必要なんです。 みなさんは頑張れば頑張るほど部下が多くなるわけです。だから部下から仰いだ社長は富士山の如くなければなりません。一番高い日本一の山、清々しい気高い麗しい綺麗な山。登ろうと思ったら登れる可能性まで秘めている。だから社長は力ずくではなく、徳で指揮しないといけません。あの社長にだったら命も身も心も捧げていいよというぐらいに、大きな志を立てて、覚悟をして磨く必要があるんじゃないでしょうか。
リーダー「山本為三郎」を追いかけて
私は入社の時に、山本為三郎という西を指揮する社長にどうしたものか惚れたんですね。山本為三郎の人智気骨のある生き様がなんとも言えないんです。私がビール会社選んだのは、みなさんほど清き高き志があったわけではありません。当時、みんな食料の会社を目指していて、その中でビール会社から先に採用通知が来ただけです。それも、名門アサヒビールの挫折がその先にあるなんて、幼稚な僕に見通せるはずがありません。昭和37年3月のことです。そしてどんどんシェアが落ちてくるという経験をすることになるのです。 シェアがどんどん落ちていく中で、社長には檄を飛ばしてもらいたいという思いがあるのに、みんなの前では爽やかな文化の話なんかをするわけです。正しくは、社長は自分の本心を我々に見せずに、辛い思いしているんだなと私は思いました。私が惚れた社長ですから、そう思うと、前から3列目に座っていた私は、目に涙。老練な社長だから、目ざとくそれを見ていたんですね。その日の晩、社長室に呼ばれ、涙のわけを報告をしたら、社長もさるものです。「しからば君、10月に全国店長会議を開催する。そこに君、アサヒビールの抜本策を出せ」って言うんです。みなさんもよく記憶しておいたほうがいいです。あなたがこれから集める社員の中で、僕みたいに血の気の多いのに対しては、褒めるよりも重大な課題を課した方が張り切るんです。だって社長がこんなに俺を認めてくれたのか、と思うもの。錯覚かもしれないけれど。
ビールのあるべき姿は「生」であるという気づき
そうして動き出した私は、17人の他社の技術屋に「ビールはどういう飲み方が正しいんですか?」と聞くところから始めました。驚くべきことに、その17人が口を揃えて「“生”で飲むのが正しい」と言ったんですね。わかりやすく言うと、それまでのビールというのは、60度のお風呂に1時間入った風呂上がりの状態のもので、それをビール業界ではラガーと呼んで、これで飲むのが普通だと言っていたんです。消費者に知識がないのをいいことに、生では腐るし、傷むし、取り扱いが難しいというビール会社の都合が優先されていました。 その気づきが勝負です。我々ビール会社が犯してきた罪は、要するに自分の都合のいい商品展開をしていたことなんです。これを経営学ではプロダクトアウトの発想と言います。一番駄目なことです。今、情報は限りなく進歩しているんですね。あなたのお客さんには世界の各地各様の情報がたどり着いているので、今や商品を作ろうとするみなさんよりも、買うお客様のレベルの方が上だという思いでもの作りをしない限りは勝ち組になれないと強く認識してください。 それで私は“生”を提案しました。私の見通しの方が正しかったんです。社長は社員に向けてこう言いました。「一般市場にこの生ビールを分かってもらって、これを開拓していかなければいけない。この商品を持って市場に踊り出たい。私の一生を賭けた仕事であり、私の最後の仕事であることを十分に感得していただき、一層の精励を願ってやみません」。こうして、さまよっているアサヒビールが1年間かけて思いを練って世に問うたのがアサヒスタイニー(※瞬間殺菌法で熱処理時間を短くした「生ビール風熱処理ビール」)です。だから、アサヒビールはアサヒスーパードライが出てきて急に天下取ったようにみなさんおっしゃいますが、そうじゃないんです。勝つ日に勝つんじゃない。ルーツがあるんですよ。
成功へつながるベクトル合わせ
みなさんがこれからつくろうとしている会社のコンセンサスの強弱、言い換えるとベクトルの強弱というのはトップリーダーの信念の強さと正比例するとも言われています。怯んじゃいけません。社長っていうのは、決断のために存在するんです。多数決でみんながスッキリするんだったら、社長は要らないということです。 そして成功するために、社員のベクトル合わせやりました。社長も人間なので、時には社長の指揮が揺らぐ日も病になる日があるかもしれません。それでも、会社が行くべき方向、夢を大きく描いて末端の社員に至るまで分かるようにしておけば、指揮が揺らいでも行くべき方向が分かるんです。 昭和64年、平成元年になった年が、アサヒビールの創業100周年でした。その100年までに、会社を仕立て直して、一番苦労をかけた顧客店さんや酒屋さん、飲食店さんに、アサヒビールと縁結びしておいて良かった、アサヒビールを応援してきて良かったと思われるようなアサヒビールに生まれ変わろうと夢を大きく描かせていただきました。その夢も3000名ほどの中間管理層、もっと具体的に言えば課長・課長代理の連中に作らせました。うちは何か手を打った、流れが変わり始めた、動きだした、これが分かるよう、夢を描くところから参加意識を持たせたいと思ったからです。兵法の「勢いは勢いを呼び寄せる。勝ちは勝ちを呼ぶ」という大原則でいきました。 次に、勢いを出すために1人何票でもいいからとスローガンを募集しました。そこで出たのが、「LIVE ASAHI for LIVE PEOPLE」です。生き生きとした人達のための、生き生きとしたアサヒビールであり続けよう。ビールの瓶このスローガンを貼りました。勢いを作るためには、意識して勢いを出す必要があります。そうすると指揮官が計算しなかったようなエネルギーが出てくるものなんです。
味の損益分岐点を突き詰めた「アサヒスーパードライ」作戦
さあいよいよビールそのものへの着手です。5000人への味覚調査のマーケティングを行いました。そうすると、お客さんたちの結論は、コクがあるビールが欲しいといいう要望が一番多かったんです。しっかりした、ボディのある味です。ところがこれをいたずらに追求していくと、一杯でもう結構、もう一度飲みたいという気持ちが出てこなくなるんです。そしてなんと次にお客さんが求めているものはその反対の概念の、切れ味鋭く、飲んだ後グズグズしないビールだと言うんですよ。これを突き詰めて行くと水っぽくなる。しかし、この相反する要素を求めているお客さんの要望に挑戦をしたわけです。お客さんに従って生きようと誓ったんですから。コクだけにアクセントを置くと一杯でもういい。そして、キレの方を重視すると水っぽくなる。だから「味の損益分岐点」を発見することを目指したんだと思ってください。 アサヒビールのように製造技術屋がいて、我々営業マンがいる。そういう組織は、成績が悪くなると必ず他責にするんですね。私は「実りなき他責」と名をつけてこれを直していくべく、2泊3日で同じジェネレーションの者を寮に缶詰にしました。ビール屋だからビールはいくら飲んでもいいと言って、飲んでお互いに泥を吐かせたんですね。「うちの技術は日本一なんて言ってるけど、本当かよ」、「営業の連中、喫茶店にたむろしてるんじゃないのか」、とかですね。そうしている間に、なんと泣き出したりするんですね。要するに雪解けです。そういうことをやっていたら、どうです。技術屋が作ってできたものを持って、営業の我々に語りかけてきたんです。「あんた方、営業の方がお客さんに近い距離にいるんだ。俺たちはこれがお客さんの求めに応じられた商品だと思うが、吟味してくれ」と。明治22年の創業以来、初めての現象だと思います。言われた営業の方も緊張しました。今まではこういうのが出来ましたと技術屋が持ってきたものを、はいそうですかと売りに行っていただけのものが、これがアサヒビールの運命を決めるかと思ったら全員がしっかり参画することになったんですね。そしてできたのが、コクがあってキレのあるビールです。
小さい企業が大きい企業に立ち向かう勇気
そうしたら昭和61年、この1年でうちは3.8倍のペースで伸びました。日本のビールの伸びた部分だけを一社で独占しても3.8倍なんて数字になりません。キリンでなければビールでないというあの強かったキリンビールさんを削り取って来ないと、同友のサッポロビールを削り取って来ないと、新規のサントリーさんを削って来ないと3.8倍という驚くべき数字にはなりませんよ。だからここまで驚異的な数字が出たことに、ビール業界も我々もびっくりしたわけですね。何度も言うように、組織というのは勢いは勢いを呼び寄せ、勝ちは勝ちを呼ぶという現象は本当にそうなんですね。 生は邪道だと社長さんも誇示し、ラガーで圧倒的に天下取っていたキリンビールさんがいたから、アサヒビールは生でしか、この道でしか勝てないとしゃかりきになってきたんです。そのキリンビールさんが「一番絞り」を出した日。あの時点で、キリンビールさんはうちよりもまだ売上がうんと大きく、ましてや金融的な中身なんか月とスッポンの違いがあるのに、キリンビールさんが「アサヒビールに主座を奪われた」と、こう言うんです。だからみなさん方も、何かに立ち向かう時に、我々の1つ実例をもって勇気を出して欲しいと思うんですね。
経歴: 1927年 長野県生まれ。陸軍士官学校、旧姓松本高等学校(現・信州大学)学習院大学卒業。1952年アサヒビール㈱入社、1974年 東京支店長、理事、1975年 取締役、1976年 取締役大阪支店長、1980年 常務取締役就任、1982年 常務取締役営業本部長、1986年 代表取締役専務取締役営業本部長、1988年 代表取締役副社長、1990年 アサヒ飲料㈱代表取締役会長、1998年 名誉顧問就任。「アサヒスーパードライ」の生みの親。